「成幸は掴みにいったらダメ、叶えさせていただくものだよ」

今日は、僕の相棒でもあり、ディズニー時代からの親友でもある加賀屋くんがやっているお店「加賀屋ラ ーメン研究所」に朝の仕込みから閉店まで一緒にさせてもらいました。
加賀屋くんは僕の本や講演でもおなじみのディズニー博士です。とにかく凝り性でコレってもんはとことん追求しないと気が収まらないんですね~。ディズニ―の他にも幼いころから大好きだった電車模型は鉄道博物館なみのコレクションをもっていたり、ラーメンが大好きで暇さえあれば気になるラーメン屋さんを食べ歩き、しまいには自分がコレって思ったラーメン屋さんのラーメンを自分でも作ってみたいと思って、ラーメン屋に修業に入ってしまうほどです(笑)
過去には、香取に美味しいラーメン食べさせてあげると、朝から我が家の庭で骨を砕くところから始め、出来上がったのは夜でした……。まさか昼には食えるだろうと思っていたので、昼過ぎに聞いてみるとこれからスープを煮込むから夜まで待っててね。美味しいからねぇ〜って、もう本格的でしょ(笑)
そんな加賀屋くんが、ちょっと相談があると言ってきたのは2010年ごろでした。
彼も僕と同じようにセミナーの講師をしたりしていて、会社は順調だったのですが珍しく真面目に僕にこんな話をしてきたんです。
「香取、僕らの仕事は人気商売でしょっ、今はいいけど人気が無くなったら仕事も無くなる。浮き沈みのある仕事だからさ、いつでも安定してるものをやった方がいいかなぁって思ってね」
「はぁっ、何言ってんだよ。そんなの心配してたらなにも出来ねぇじゃんか。全ては行きあたりバッチリだからよ。大丈夫だろ(笑)」
「いやいや、真剣に考えてるんだよ。それで俺、ラーメン屋をやろうかなって思ってね」
「えっ加賀屋、今の仕事をやめてラーメン屋やるの?」
「そうじゃなくて、セミナーの仕事とか入っていない時に、ラーメン屋をやって少しでも収入の足しになればなって……」
「はぁっ!! お前アホかっ!!
そんな中途半端にやって、上手く行くはずなかろが!! お前なめんなよ。
日本全国のラーメン屋さんは、真剣にラーメンだけを必死に作ってるから成り立つんだろ? 修行はしたって言っても、趣味で片手間でやって上手く行くわけねぇじゃねえか。やるならどっちかなんじゃねえのかっ!!」
「……。うん、やっぱりそうだよね」
その時は、加賀屋が思いつきで言ってんじゃないのかって受け取っていました。
それでも、あいつがラーメン屋をやって失敗しない方法はないのかを考えてみたんです。
飲食店のリスクは、在庫を持ってやるわけで、しかも飲食店の在庫には賞味期限もあり長く保存出来るわけでもない……。となるとお店が繁盛しない限り在庫を抱えてロスしてしまう。そうならずにラーメン屋を出来る方法はないか……。
そして思いついたのが、厨房カーと受注生産でした。
「加賀屋、お前ラーメン屋やりたいって言ってたじゃん。いいこと考えたんだよね。
厨房が付いている車があるじゃんか、あれを中古かなんかで探してよね。セミナーとかで呼ばれたところで、イベントとしてラーメン何杯で受注してそこだけでやれば、ロスも無くなっていいんじゃねぇか?」
「う~ん。ありがとう。でもさ、そうじゃなくてやっぱりラーメン屋をやってみたいんだよね」
なるほど、加賀屋は本気だったんだなって気付きました。
それならと、加賀屋に以前、北川八郎先生から聞いたお話をしたんです。
「加賀屋、昔北川先生の話を聞いたじゃん、夢や成功は掴みにいったらダメだって話。覚えてる?」
「あぁ、うん」
「北川先生と一緒にお逢いした時にさ、『加賀屋くん、夢や成功は掴みにいったらダメだよ。夢や成功はね、叶わせて頂くもんだよ。
掴むん言うんは上から手を広げて掴むでしょ。掴んだものが大きくても一応掴めるんだよね。でもね、それが大きければ大きいほど疲れるでしょ。だから疲れて手放すよね。
反対に頂くって言うのは両手の掌を広げてお天道様にむけて、そこに乗せてもらったもんだから、そんなに大きくはないけど、頂いたもんは大切に大切にするもんね。だから、叶わせていただくんだよ。』ってさ、掴みに行くってのは、何が何でもラーメン屋をいついつまでにやるぞって事だと思うんだよね。だからさ、今直ぐにって事じゃなくて、ラーメン屋をさせていただければいいなぁ~って思ってたらいいのかもね。そしたら周りから『加賀屋さんラーメン屋さんやりたいなって言ってましたよね。実は……』って言ってもらえるかもしれないじゃんか‼」
以前、北川先生に教わった夢や成功は掴むんじゃなくて、叶えさせて頂くもの。
確かに、目標や夢の実現に期限を設定して、そこからの逆算でいつまでに何をすればいいのかと言う風にして行く事も大切ですが、それをやり過ぎると、その決めた期限に拘るあまり期限を優先して周りの声や状況を正しく判断出来なくなります。周りが『来年の4月って言ってたけど、4月は○○がこうだから止めておいた方がいいんじゃない』って言う声が聞けなくなってしまうわけです。結果4月に実現できたけどうまく行かずに離してしまうってことなんだと思います。
加賀屋くんの凄いところは、素直に話を聞いて実行出来る所なんです。
その後、加賀屋くんは言われた通り、いつかラーメン屋をさせていただきたいんだよねぇって言っていたらまい込んでくるんですよねぇ~。
ちょうどプロセミをやっている、だっちょさんから『うちのセミナールームの横に居抜きの居酒屋さんがあって、大家さんが誰かいい人に借りてもらいたいんだよねって言ってるんだけど、加賀屋さんラーメン屋さんやりたいって言っていたよね。どう?』って話が‼
そうするとまた『震災でお蕎麦屋さんのお店を流されて、もう歳だから再建できないので、水はかぶったけど洗えば使える厨房機器があるんだけど、だれか心ある人に譲れたら』って話がまい込んできます。
お蕎麦屋さんの厨房機器ですから、当然ラーメンにも使えますもんね。その他にも冷蔵庫なども譲ってもらえるんです。ほんと凄い奇跡が次々と起こります。
「加賀屋、それはきっと叶えさせて頂くってことだから、やらせて頂いてもいいなじゃないか?」
「うん、そうだよね!!」
嬉しそうなその時の加賀屋の顔は今でも覚えています。そして、更に加賀屋の凄いところがここから始まります。
僕は当然、ラーメン屋さんは加賀屋がセミナーの無い日に営業するのかと思っていましたが、加賀屋からの話に脱帽でした。
「ラーメン屋さんなんだけどね、名前は加賀屋ラーメン研究所ってしようと思う」
「おぉ~いいんじゃない」
「研究所だから僕の大好きなラーメンを研究する場所にしたいんだよね。だから、お世話になった皆さんにセミナーが開催される日だけ、そのセミナーに参加された方や、僕の知り合いに声を掛けて、僕が作っ たラーメンを振る舞おうと思うんだ」
「ん? って事は、営業しないって事?」
「そう、趣味で研究するラーメンだからお金は取らない。セミナーとかでお世話になった人達にお礼ってことにしようと思う」
「加賀屋、お前ぇスゲェな!! 
それは良いかもね。そうしてやれる範囲でやって、もし皆からもう十分だよ。加賀屋さんもうお金取ってよって言われたら、そん時に商売としてやればいいもんね。でもやっぱスゲェよな」
「うん、僕もそう思うんだ。皆からそう言ってもらえるように、売り物になるように研究して行こうと思うよ」
そして加賀屋ラーメン研究所がスタートしました。
セミナーの後に懇親会でラーメンを振るまう、セミラーなんて言われて多くの人に喜んで頂き、とうとうその日がやってきました。 
2014年研究所をはじめて2年間が過ぎた時、とうとう加賀屋のラーメンを食べてくれた多くの人から言われます。
「加賀屋さん、もう十分ですよ。営業してください。私達お金を払って食べにいきますから」
そして、大家さんからも
「加賀屋さんのラーメン美味しいんだけど、もっと近所で食べたいって人が居るから営業してくださいよ」
凄いです。継続は力なりですね。
そうして本格営業をはじめるのですが、ココがまた凄いんです。
「香取、いよいよラーメン屋を営業しようと思うんだよね」
「おぉ~凄いね。いいよね」
「それでね、営業するのはセミナーがある日の夜と、僕が空いてる水曜日でやろうと思う」
「えっ、水曜日が定休日ってことじゃなくて?」
「うん、このならびにある飲食店さんとかが、水曜日定休日だからそこでやらせてもらおうと思って」
「どういう事?」
「並びの居酒屋さんのお客さまを取ってしまっては申し訳ないもんね(笑)」
もう突き抜けていますね。
そしてお店は、今日までそんな感じでやるわけです。
通りから外れた、わかりずらい場所にあるにも関わらず、ご近所の方や加賀屋の人柄にほれた人達で営業日には、お店の中に沢山の笑顔が広がっています。
後2年で50歳を迎える俺と加賀屋くんですが、これからの事をお互いに考え、何をこの2年で勉強して50代を過ごすのか、それを考えた結果、やっぱり本業に集中していこうと言う事で、2019年の6月に一旦お店を閉める決断をしました。
そして今日、それをみんなに伝えると、集まったみんなから口ぐちに閉めないでって言う声が……。
さらに、それだったら、加賀屋さんが閉めた後は、皆で家賃を出し合って、またいつでも始められるように待ってるからって声が……(涙)
やっぱり投げた球は返ってきますね~。
ホントに加賀屋くんを尊敬しました。


「孫の未来へおもてなしジャパン‼」

先日参加させて頂いたひまわり甲子園で、最後の総評で中村文昭さんがお話してくれた、中国版のTwitterで多くの人たちにシェアされたお話が印象的でした。
その内容とは、中国から日本へ旅行に来た人が、母国の人達につぶやいた内容で、文昭さんの知り合いの中国人から教えてもらったお話でした。
我々中国の人達はなるべく早く日本に行くべきです。なぜなら日本には、私達中国人が見習わなければならない事が沢山ありましたと言う内容だったそうです。
先ず、日本に来て驚くのは道にゴミがひとつも落ちていないと言うことだったそうです。
母国中国では、ゴミを捨てる人の方が拾う人の数より圧倒的に多い。だから街中の道路にはゴミが散乱しています。
母国にいる間は、それが当たり前だからそこに気がつくこともなかった。でも日本に来てみたらそれが不自然な事に気づきました。圧倒的にゴミを捨てる人の方が少なかったのです。
このまま経済が発展して行っても、今のままの状態なら、我々中国はいつまで経っても国際社会の一員にはなれないのではないか?
そして一番びっくりしたのは、日本のお店です。旅行中色々な場所でコンビニを利用しました。もちろん何か必要な物を買ったりもしたし、何気なくお店に入るから買わない事だってある。何も買わないでコンビニを出る時、それはどこのお店でも同じように、従業員の人達が「ありがとうございました」と店を出る私に頭を下げるんです。
驚きました。きっとあの店が特別なんじゃないかって思って、意識して色々なコンビニに行ったけど、どのお店でも何も買っていない私にやっぱり頭を深々と下げるんです。私と同じように何も買わないで出ていく日本人の人達も居ましたが、同じように店員の人達はありがとうございましたと頭を下げます。でもその事に日本人のお客様は誰も驚いていないんです。
きっと日本では、商品を購入しようがしまいが、お店に来てくれた人たちは、皆さんお客様なんだとわかったんです。“わざわざ来てくださってありがとう”これこそが日本のおもてなしなんだと気づいたのです。
だからこそ、私達中国人は日本に行って感じてほしい。今こそ日本に行きましょうと言う内容だったそうです。
それを聞いて文昭さんは、今の日本にはどこに行っても中国をはじめ海外からの観光客が沢山来てくれる。もしかしたら、このツイートを見て日本に行ってみようって思ってくれてるかもしれない。
そんな中、日本中で観光客が急増してきて、その前までは、おらが村に観光客をとあの手この手で誘致して、いざ観光客が増えだすと、そこに住んでる人達から文句が出て、観光客に冷たく接してしまう。
これでは、せっかくツイッターを見て期待してくれた人達に残念な印象を与えてしまうのではないか?
だったら、今こそ僕らがスマホに翻訳ソフトみたいなんを入れといて、街で困ってる観光客の人達に親切にしてあげることができたら、やっぱり日本に来てよかったなって思ってもらえるんじゃないか。そんなお話でした。
僕はそれを聞いて、自分が台湾に行った時の事を思い出しました。
街で道に迷っていた時、飲食店でメニュー見て何が書いてあるかわからなかった時、あなた達は日本から来たの?って日本語で声を掛けてくれて、日本人であるってことだけで、どこに行っても親切にしてくれました。
後でわかった事ですが、僕が親切にしてもらえたのは、ちょうど僕から3代ぐらい前の日本人の素晴らしい人達が、台湾でしていた事が台湾の人達に伝わり、それが回り回って日本人だからってだけで僕に親切にしてくれたんです。
福島の“ぼんさいやあべ”さんじゃないけど、僕らの親切は孫の代に繋がる親切だと考えたらわくわくしませんか?
僕らの孫の代に国どうしが争い、その争いに自分の孫が行かざるおえなくなり、結果殺し合いをしなくてはいけない未来と。
たった今の僕らが行う小さな親切が、回り回って、やっぱり日本は素晴らしかったよって語り継がれ、孫の代では仲良くなって、平和で楽しい関係になれるかもしれないそんな未来。
僕らはどっちを選択したいのか?
やっぱり僕は、後者を選択したいと思います。
今は国同士があんまり仲良くなくても、僕らが今、日本に来てくれている、世界中の人達に親切にしていたら、きっと僕らの孫やその子の代には、仲良くなって、平和な世界を残したいと思います。
文昭さんの話を聞いて、大げさかもしれないけど、今、僕らが行う親切やおもてなしは、孫の未来を明るくすると信じて、僕もこれから観光客の人達に親切にしてみようと思いました。


「孫の代の仕事をしています」

皆さんは自分のお仕事をしている時、どんな気持ちで仕事をしていますか?
「コレをやり終えれば、〇〇円になるぞ」
「一所懸命やることでお客様を幸せにできるぞ」
「これで私の評価が上がるな」
「この作業で日本が、いや世界が変わっちゃうかも〜」
色々とそのお仕事の種類や、やる内容でも変わるのかもしれないですよね。
実は先日連れてって頂いた、盆栽を売らない盆栽屋さん『ぼんさいや あべ』さんで衝撃的な事を教わりました。
ぼんさいや あべさんは、初代倉吉さんと言う方が始められたのですが、元々皇居での剪定もしていた凄腕の盆栽作家でした。
昭和初期、倉吉さんはこれから世の中が安定に向かい、人々の暮らしにも余裕ができ、趣味の時間も出来て盆栽ブームを迎えるに違いないと思い、福島で“ぼんさいや あべ”を始めます。
倉吉さんの思った通りブームが来るのですが、ここで倉吉さんが、あることを危惧していました。
それまでの盆栽は山からある程度盆栽になりそうなものを選んで根こそぎ採ってきたものから作るのが主流です。
ブームになって盆栽が流行れば流行るほど、山は荒れ自然が壊れていく、何十年後にはこの山には五葉松がなくなってしまうんじゃないかと……。
そこで倉吉さんは、吾妻山の五葉松の種を頂き、種から育てると言う方法を考えたのです。ある意味、これは時間もかかるし手間もかかります。それでも自分の庭に種から五葉松を育て始めます。そしてその技術を惜しみなく地域の人達に広め、地域には沢山の盆栽屋さんが生まれたのです。
そして今は、初代から三代目と続く盆栽やさんになりました。現在では世界中から、初代倉吉さんから継承された五葉松の盆栽を視察しに多くの人が訪れます。休みの日には、観光バスが何台も来るほどだそうです。
中には、大金持ちの人達が、紙袋に札束を沢山忍ばせ、ここにある金であべさんの盆栽を譲って欲しいと懇願される人達も後を立たないそうです。
しかし、ここにあるのは先代が心を込めて手間暇惜しまず手をかけて育て、譲り受けたものなので、一切お譲りすることはできませんと断ってしまうそうです。
ではなぜ世界中の人達を魅了し続けるのか?
盆栽は基本的に三角や丸い整った形に作るのが一般的だそうです。しかし、ぼんさいや あべの盆栽が三代に渡って目指しているのは、裏にある吾妻山の山に溶け込めるほどに自然に近い姿の盆栽なのです。
二代目の健一さんが東京の盆栽の展示会に行った時、形よく綺麗に整えられ立ち並ぶ盆栽に衝撃を受けます。日本最高峰の展示会で見た盆栽の中で、自然を切り取ったような作風はぼんさいや あべのものだけでした。まだ若かった健一さんは、そこで見た綺麗に整えられた松を真似てハサミを入れ盆栽を作るのですが、その仕事ぶりを見た先代から激怒されるのです。
「盆栽を見て盆栽を作るな‼ 俺たちには恵まれた事に吾妻山がすぐ近くにある。こんなに恵まれた環境においてお前は何をしてるんだ」
盆栽は自然に学ぶもの。人の真似をして作るものではない。
ぼんさいや あべが目指すのは、樹齢何百年の吾妻山の松を人間の手をかけて鉢の上に表現する事。風雪にさらされ、雨に打たれ、自然の厳しい環境の中でたくましく育っていく。その姿に人は感動を覚えるわけです。
そんなスゴいぼんさいや あべさんに訪問させて頂いた時の事です。小さな小屋の中で、二代目の健一さんと、その奥様、そして三代目の大樹さんが、小さな鉢にまだ小さな松を植え、針金を巻いて居ました。
「香取さん、僕らは何をしてると思いますか?」
僕には何をしているのかわからず、「う〜ん」と黙っていると、三代目の大樹さんから言われたのは、
「今、僕がやっているこの仕事は、孫の代の仕事なんですよ」と笑顔でおっしゃったんです。
一瞬意味がわからなかったのですが、よくよく考えてみると、なるほどぉと感心してしまいました。
あべさんの盆栽は、種から育てるんです。今、目の前で鉢に植えられている小さな松ですが、そこまでに育つのに少なくて3年、長くて5年かかっているわけです。
それが大きく盆栽として姿を表すのには、40年、50年先になるわけです。だから今やっているのは、孫の代に繋がる為の仕事だったんです。
僕はそれを聞いて、自分の仕事に当てはめてみました。
今やらせて頂いている講演は、孫の代に繋がるように本気でやれているのか? 孫の代に繋がる事を考えてセミナーをしているのか?
もしそうだとしたら、もっとやり方があるんじゃないか? もっとぶっ倒れるぐらい一生懸命にやれるんじゃないか?
振り返ると、僕は目の前の事をただただこなしているだけだったんじゃないかと深く反省しました。
自分の孫の代に繋がる仕事。
そんな風に思って本気で仕事をしていこうと決めました。
皆さんのお仕事は、孫の代のお仕事になっていますか?
伝統の伝承、ホントにすごいと思いました‼